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居合道の稽古

 



皆さまは居合道の稽古はご覧になったことがありますか。

居合道の心得がない方にとっては一体何をおもいどんな稽古をしているのか稽古の目的は何であるかがわかりにくいことでしょう。

居合道の稽古の概略を話します。

居合道の稽古は「理合」といわれる道理や想定に基づいて業を「体現」しようとします。しかし、はじめから思うようには身体も刀も心も操作できないものです。よって体現した業に対して身体の操作・刀の運用・心の在り方について見直しをします。そうして得たことを次の業へ還元して心・業・身体を高めるものです。

次に稽古の実際をお伝えします。

稽古方法は決まっておりませんが、何らかのかたちで必ず自己と向き合う時間をもちます。向き合った自己を誤魔化すということは困難ですから、業の至らないところが他者の評価を待たずして、まず自己の中で明らかになります。そういうことからか稽古では手を抜く事ができず、自然と自己に厳しくなる方が多いようです。稽古者はこの二つの行為、「理合の理解」と「業の体現」のあいだの往来を繰り返します。これが居合道の稽古の基本となります。

居合道の稽古は他の武道の稽古と比べると、自己と向き合う時間がながいという特質があります。自己と向き合うことが稽古の大半であると言っても言い過ぎではないくらいです。

そのため一般に武道とよばれることの印象から想像するよりも殊に自己と向き合い心の在り方や業の為し方をかんがえることに重点が置かれます。

自己と向き合う様子は傍目からは何をしているのかがわかりにくいため、自然“地味”なものであるとの印象を持たれることが多いようです。

居合道の稽古において、身体および刀の操作の向上は業の上達のための大切な要素です。

しかし自己の業を見つめて内省し「気づき」を得ることこそが業の上達への大切な要素となります。

「気づき」を丁寧に反芻して自己の業に生かすべく根気よく続けてゆくことが上達につながります。

私の師である清田泰山師は、常日頃、居合道の稽古の心得について「居合道の稽古とは薄紙を一枚一枚重ねてゆくようなもの」と語っておりました。

我が師は積み上げる薄紙の詳細に言及することはありませんでしたが、一度、師から見せていただいたある書物は師の書き込みでいっぱいでした。内省の塊でした。私は師の想う「積み重ねる薄紙」は白紙ではなく、時々の気づきが書き付けられている「薄紙」であると想像しております。


歩水


2018年5月29日 初出
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