top of page
執筆者の写真武蔵野稽古会 無雙直傳英信流

私の居合観 稽古の姿勢


居合の業は理合と操体・剣運を両輪として成立します。
業を体現する条件を具えた躯体に理合を載せてはじめて十分な効果を発揮するものです。
これはハードウェアとソフトウェアの関係に例えてもよいでしょう。

私たちの居合は心神を含めたハードウェア(躯体)に先人先達によりある目的のために練り上げられたソフトウェア(理合)を載せた一連の行為と言えます。
存知の通り先人先達によりソフトウェアの基盤は既に用意されています。皆様が整えるのはその用に適うような心神を含めたハードウェアです。皆様がハードウェアに搭載しようとしているのは幾世紀も前につくられたソフトウェアであり現代では得られない経験のなかでつくられたものであることを心に留めてください。
時間に隔たりがあるものを己の身のうちにするにあたり「古を稽える」ことには新しく成立したことに比してより重きを置く必要があります。これは裏返せば現在のみがすべてであるとしていては十分ではないということです。時間の経過の意味がありません。
何事も時間の経過に正比例して必ず向上してゆくことばかりならばただ現在を元にして積み上げてゆけばよいのですが必ずしもそう単純ではありません。ですから居合でも古を顧みて照らし稽え、時には立ち返り改めることも必要なことです。幸い時間の経過が長いことは照らすべきことが多く恵まれたことでもあります。

居合に限らず平素の稽古を積み上げるうちに咄嗟のことに即応した無想の動きのような、まるで判断・思考を経ずに躯体が勝手に動いたと感じることがあるかもしれませんが、正確にはこれは生物学でいう反射ではなく耳目その他で得た情報から脳が判断・思考をおこなっているものです。科学的には理合いを意識した稽古によりある状況に対して常に心の準備が整っている若しくは特定の情報の集合に対して判断・思考が単純化・定型化されているため結果として行為に至るまでの反応時間が短くなっているものと考えられます。「ヤカンに触ったら熱かったので手をひいた」という単純なことでないことはご理解いただけますでしょう。無意識といえるのは常に心の準備“構えのない構え”ができているというところくらいではないでしょうか。
ですから入り口は手付の修得や形の模倣であったとしてもそれを「居合」たらしめるためには平素理合を意識することが必須です。
理合を意識することで業の自己修正のもとにもなり、また、業への疑問へつながり理解も深まります。“量”はいずれ“質”になるという考えがあてはまるのはこれ以降です。

行為の殆どは思念や道理が先行して行動が後追いしてゆくものです。例に漏れず居合でも理合が先行するものです。
したがって理合のない状態で「(たぶん)“量”はいずれ“質”になる(だろう)」という向合い方は稽古姿勢として的を射ておらず、労多くして功少なしというべきものです。無駄の削ぎ落しを根幹思想とする当流の場合はなおのこと理合を念頭に置き、理合を裏付けとする “あるべき形”へ直線最短距離で向かう稽古姿勢こそが適当と思われます。
“量”はいずれ“質”になるという考えはこの基本姿勢の上に成り立ちます。

稽古の先にそれぞれの居合哲学・居合観を持つことができたならば居合人生の味わいも一層深くなることでしょう。


歩水
2022年4月1日 初出
閲覧数:12回0件のコメント

Comments


bottom of page