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武蔵野稽古会傳 作法 細論 其之十一


そのほかの伝承 一

鷲の爪の事

直立の時に、空いている手の親指を軽く握り込む事を清田泰山師より「鷲の爪」と教わりました。

同流、同系統の道場であっても、直立の姿勢は指先を揃え伸ばす道場も多く、果たして道統の教えなのかは不明です。

戦国時代、胡坐礼の際に同じ握り方で床に拳を着けて頭を下げる作法があり、親指を切り飛ばされたり、取られて折られたりすると刀が抜けなくなる為、このように親指を隠す所作が用いられていたとの事で、これがこの握り方の由縁かもしれません。

また、土佐に伝わる江戸時代の古傳書「英信流居合目録秘訣 居合心持肝要之大事 太刀目附之事」に、「敵の足に目を付けべし是にて場合能く知るゝ而巳成らず臆せざる也 是を上見ぬわしの位とも云なり心は下に有って事さ上に速に應ずる由断無の心なり」とあります。
「上見ぬ鷲」と云う慣用句は古い和歌にもありますが、この太刀目附之事とは意味合いが異なります。

江戸期の土佐伝書に鷲というモチーフが見える事から、清田泰山師が福井聖山師の前に師事した山内派二十一代 川久保瀧次師の口伝にあったのかと推察し、同じ川久保師の山内派直系であり、不肖の古傳研究で一方ならず御教示戴いている山内派二十四代 塩坂洋一師に尋ねたことがあります。

塩坂師によると、所作の親指握り込み「握固」は山内派の大きな特徴のひとつであり、山内派(清田師の先師である川久保師から山内派の道統を継いだ佐藤知三師~上野明義師~塩坂洋一師の系統)の教えとして「気を高める」「指を取られない為」拇指を手ノ内に握り込むというのは最初に教わることのひとつであるが、先師からは「鷲の爪」という用語は聞いたことがない、との事でした。

不肖が古傳稽古の依代としている、無雙直傳英信流 下村派十六代 曽田虎彦師による古文書群の写し「曽田文献」に上記の「英信流居合目録秘訣」も収蔵されており、曽田師より当流二十代 河野百錬師へ同じ写しが贈られています。
さらに河野百錬師はその後、非売品「無雙直傳英信流叢書」として同書を出版されており、あるいは清田泰山師が面識のあった二十代河野百錬師、その後直門となり師事した二十一代 福井聖山師による土佐の口伝であったかもしれませんが、塩坂師によると上野師より伝わる川久保師の逸話として、以下のようなお話があったとの事です。

「川久保先生は全居連でやるようになり、全居連の所作では握り込みをしないようにしていたけれども、演武映像や写真を見れば分かるように、自然と親指がやや内側に曲がり人差指の下側に入る感じになっているんです。」

確かに当会会長や不肖が小平時代、全居連の大会に出場した時、清田門は皆、直立姿勢で親指を握り込んでいましたが、ほとんどの道場では五指を真直ぐ伸ばし、「きをつけ」の姿勢でした。
清田門では立業に入る姿勢も直立と同様に鷲の爪に握り手首の付根が軽く太腿に触る姿勢、つまり他の道場のような五指を伸ばし腕を両脇に密着させる「きをつけ」ではなく、脇に余裕を持ち、肱を伸ばし切らない「弛の位」であったことに思い当たります。
全日居の基準では五指を伸ばしていたことから、河野師、福井師の教えとは考え難く、やはりこれも山内派から伝わる古い武的所作であったと考えます。

当会には他にも、福井宗家の所作とは違う山内派の武的所作が伝わっておりますが、ここでは割愛します。
ともあれ、鷲の爪という呼称の出自は不明のままですが、その所作は清田師の先師である山内派の教えであることは間違いなさそうです。


无拍
2022年12月2日 初出
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