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執筆者の写真武蔵野稽古会 無雙直傳英信流

無雙直傳英信流視点における刀についての私見 其之四


当流 無雙直傳英信流の稽古に適した刀とはどのようなものか、林崎甚助公に倣い、より不利な状況を以って稽古とする視点で考察してみます。

無雙直傳英信流の名称に讃えられる江戸前期~中期の人、当流七代 長谷川主税助英信師の頃には、抜刀の形は室町から江戸初期の源流に近い時代と違い、打太刀をたてない独演形となっていて、長刀で稽古する意味も薄れています。

業も神夢想林崎流のように納刀で相手に触れている極限の近接状態からではなく、抜刀に支障が無い程度の間合での攻防を想定した業が殆どであり、むしろ対手より短い得物のほうが不利な状況ともいえます。

例えば現代に伝承される「正坐之部」では、「受流」「附込」「月影」等明らかに対手が先を取っている想定もありますが、そのほかは「敵の害意を察して」といった抽象的な「後の先」想定であり、これを心持に留まらず具体的な「後の先」で指導している道場は多くありません。

「立膝之部」はその殆どが対手の仕掛けから始まる具体的な「後の先」想定で、林崎源流のよすがを垣間見る事が出来、打太刀をたてれば仕太刀が長刀で制する稽古として意義のあるものと思います。
 ただし、古傳では「立膝之部」に相当する「英信流居合之事」の次に棒術「棒合」「棒太刀合」を稽古し、その後「大小詰」「大小立詰」と続きますが、居合膝に坐した仕太刀に打太刀が仕掛ける想定はこの「大小詰」に継承され、より高度な技術として刀は抜かず和術(柔術)で制する業に昇華し、刀の長短は拘る処では無くなります。

現代伝承されている居合に話を戻すと、最後の「奥居合 居業之部・立業之部」では「脛囲」を除きまた心持の「後の先」となります。

「正坐之部」「立膝之部」と稽古を積んだ暁の極意である奥居合は、未だに「長い刀を相手より速く抜く」だけの稽古ではないと考えます。

ある程度間合を取っての「先の先」ばかりであれば、長刀での抜刀稽古も意義があるやも知れませんが、たとえ具体的な想定が失われ、心持ばかりであっても当流は(古傳では仕物業など例外はありますが)本来「後の先」です。

そこには抜き合いの速さだけではない理合をも内包しているはずです。

そこで、次回は古傳の業まで遡り、当流における稽古に適した刀の条件を雑考します。


无拍 
2019年10月1日 初出
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