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雑考 道としての居合 其之七


居合の業、傳承がどれだけ完成されていたとしても、精神性を伴わない居合はあくまで居合術であり、必ずしも術は道たり得る訳では無い、というのが不肖の認識です。

居合道は術の鍛錬を以て成り立つものですが、いくら術に長けていても理を追求しない居合は道とは呼べないものと考えています。

元より居合とは生殺与奪の実用ですが、「形により心に入り業に依りて心を養う」との古人の言にある通り、常に彼我の命を遣り獲りする実用の想定を以て業を錬る事により、初めて自他の生死を晟かにする、心の修養と成り得るものと考えます。

習いの初歩より「道」である今日の居合道では「鞘の内」、つまり「斬れるが故に斬らない」ことが道の真髄のように唱えられ、「斬れる斬れない」「他者より強い弱い」等の詮議は当然の論外です。

しかし本来それは、業を百錬し居合の理に至った暁にある大悟であるはずです。

理に至る道としての稽古には、実際に斬れるかは兎も角、如何に制するか、即ち斬るかを稽える心持が肝要であると不肖は確信します。

実際に物を切る事、他人と仕合う事を肯定するものではなく、己が何を顕しているのかを見失わずに業を研かねば、事理一致に近づくを得ない、而して居合道では無いという程の意です。

この心的動作を包含した業の精錬の暁にあるのが「斬らず斬られず」の大悟であり、断じて「斬らず」は「斬れず」であってはなりません。

不詳にとっての居合道とは、即ち「想定」「理合」を解し踏まえ劔刃上、真劔の心持にて業を行う事こそ、居合を「道」たらしめる修行であり、居合道を名乗るに適うと稽えるものです。

斯界では「修行に終無し」などと云われます。
不肖の居合が踊りから抜け出せるものか、道は観えず五里霧中です。
道に至ることは無く、そのうえで敢えて道に道に至ろうとする稽古こそが、居合に於ける道であるのかもしれません。

雑考 道としての居合を終わります。


无拍
2021年4月27日 初出
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