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雑考 道としての居合 其之三


下村派十六代 曽田虎彦師の残された江戸時代中期の英信流文献写し「居合兵法極意秘訣」(原本は十代林安大夫より明和元年1764年に十一代大黒元右衛門へ贈る)には、仕物(上意討)や不意打ちへの用心、自分が不意打ちを掛けられた時の対処、そして不意打ちを仕掛ける時の心得が子細に渡り書き残されています。

例えば「暇乞」は雑談に持ち込み、去り際に「ではまた近日…」と立ち上がりざまに鐺で突き倒して刺す、「火村風」では相手宅を訪問し、相手が煙草盆を出した処で火入れを掴んで打ち付ける、捕物に行くときは灰と石を包んだ目潰しを持つ、など具体的です。
業も「大小詰(刀を抜かず敵を制する英信流和術)の極意は霞蹴込につづまる」、つまり極意は目潰し金的蹴りである、と明言していたりします。

この当時、不意打ちは士道に悖ることでも何でもなくごく当たり前の兵法であり、むしろ対応出来ず切られるほうが不覚悟と云わんばかりです。
中世から維新までの武士道とは所謂「忠誠心」を賛美するもので、手段の善悪とは別の論です。
現代でイメージされるような正々堂々の武士道ではありません。
命の遣り取りである武術において隙をつく事、急所狙いは云う迄もなく当然の戦法ですが、現代のスポーツや一般的な武道では殺し合いではない試合が主であり、危険な技は禁じ手、反則とされる事で、本来最も効率的な業技法が卑怯、悪という感覚さえ生まれます。

然りとて殺伐とした中世の武士道が正しく、秩序ある現代の武士道が違う、という事ではありません。
その時代により善悪の定義は異なり、立場、個人の認識によりさらに異なるのが当たり前であり、同じ道場訓に基く武道観であっても、捉え方はそれぞれです。

不肖にとって現代の武士道、士道など倫理観を指す場合の「道」とは、己を律する戒律であり、他者へ押し付けることなど意味の無い使い方であると考えるものです。

続きます。


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2021年2月9日 初出
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