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雑考 道としての居合 其之五


居合に於いて、武術としての本来的な目的とは即ち敵を制する事だと認識しています。
この目的を達する為の手段、致し様を一向追求する修錬が、居合に於ける道の修行に当たると考えています。

居合道として稽古される無雙直傳英信流の業は、少なくとも古傳にその業名を残す棒術、体術系統を除けば、本則的には刀の斬突により対手を制する形です。

然し乍ら、現代社会にあっては真剣を用い殺傷の技術を修錬する事に些かの日常性もありません。

故に制敵という目的は現実感を失い、ともすれば他者に危害を加えるという本来の決着を忌諱するあまりか、その動作の意味まで見失いがちです。
結果、相手を制する手段として稽古している筈の業が、観た目は同じでも独りで刃物を振り回す、極論すれば「踊り」に変質してしまいます。

踊りも立派な芸道の一つです。しかし最早、居合道とは別の道であると云えるでしょう。

本来の目的が失われ、手段のみが変質した形骸では、久年の精錬を繰り返した処で居合の理に辿り着く事は叶わないと考えるものです。


无拍
2021年3月16日 初出
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