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雑考 道としての居合 其之六


一見すると刀踊りと同じような所作、それでは如何なる相違を以て形骸ならざる居合とするべきでしょうか。

不肖は現代の居合に於いて、ただ形の表面をなぞるだけでは道としてその求むる処に及ばないものと考えます。

当流に於いても現代では維新後の十七代大江正路師以降より宗家制が採られており、代が替わると業の末節が改変されるといった、ありがちな事態が何代も続いています。

二十一代福井聖山師の宗家訓には
「当流の居合を学ばんとする者は、古来より伝承せられ以って今日に及ぶ当流の形に聊かも私見を加うることなく、先師の遺された形を毫末も改変することなく、正しく後人に伝うるの強き信念を以って錬磨せられん事を切望する。(後略)」
とありますが、その実福井聖山師の業前も、先代二十代河野百錬師の業と全くの同じではありません。

先代や先々代直系の居合を頑なに守る、当代による業の改変を良しとしない人達に対し、当代の居合を学ぶ人達は、当代の業と違う、正統の業では無いと批難します。
逆に先代、先々代の業を堅守する人達は次代直系の人達に対し、次代は正流の業を変えてしまったと批難します。

宗家訓は次のように続きます。
「(前略)剣は心なり。心正しければ剣又正し。心正しからざれば剣又正しからず。
剣を学ばんとする者は技の末を追わずその根元を糺し、技により己が心を治め以って心の円成を期すべきである。
居合道は終生不退、全霊傾注の心術たるを心せよ。」

当代がどの様な改変をしようが、当代であるが故にそれが正流であり、当代が当代たる権利であり責任であると不肖は考えます。

当代の技法が変化するのは想定か理合に解釈の変化があっただけの事で、少なくとも同じ根源の直系であればどちらも使えて当然の範疇であり、つまりは技の末です。

また、先代、先々代も間違いなく宗家であり、正統の教義として残した業形口傳は喩え当代と違っても、それはまさしく先代、先々代の宗家正統の業です。

今日の無雙直傳英信流が元始の林崎居合、中興長谷川英信流の居合から形、業ともに変容している事は言を俟ちませんが、元来武術とは時代の実用である為に常時変化するものであり、流派の劔理、理合が一貫しているならば、どのような変化であれそれは無雙直傳英信流であると認識しています。

理合は想定があって初めて意味を成します。
要は想定と理合を理解し、それを実行した結果が顕在する業である事が、居合と刀踊りを分かつ際目と考えています。

教義の根源も理合も曖昧な、形のみ見映えする現代の創作ではなく、根源が盤石として揺るがず理合が明確に徹った教義であれば、当代の傳でも先代の傳でも、当会の系譜とは明治期に分かれ、全く別の傳承で続いてきた英信流であっても、道を求める修行の依代としていずれも正真の英信流であると考えるものです。


无拍
2021年3月25日 初出
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