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雑考 道としての居合 其之四


居合道歌に詠む

  居合とは 人に斬られず人斬らず 己を責めて平らかの道

まさに「居合」の「道」を喝破しています。
ただしこの歌は元々

  居合とは 人に切られず人切らず 唯請とめて平に勝

という歌が林崎新夢想流の傳書「秘歌之大事」(元禄十四年1701年)や前出の無雙直傳英信流「居合兵法極意秘訣」に収められているのですが、「己を責めて」の替歌はこれらの文献には見えず、出典が不明です。

この歌は、ただ己を曲げて事勿れに徹するという意ではないと解釈しています。
この歌に詠まれている居合の道とは、相克するものと和する心、難局に在って阿らない胆力を培い、社会にあって之を貫く覚悟を涵養するもの、と受け取っています。
不肖の考える居合道の実践とは「和して同ぜず」の実行であり、この歌のこころは同義であると認識しています。

道を標榜する武道、芸道は数多ありますが、道とは須くその業を精錬し、夫々の目的に対し純粋となる迄高める事により理(ことわり)に到るを本懐とするものと、不肖乍ら解釈しています。
そして道の修行とはどのような道であれ、稽古に依ってその致し様の無駄を排し、極限まで純度を上げる修錬と考えます。
赤熱した玉鋼をひたすら打つことにより不純物を叩き出して鋼の純度を上げる、日本刀の鍛錬にも通ずるものを感じます。

先ず手段を鎀煉し、鍛錬研磨を経て最後に残るものは純粋な本質であり、本質は理を内包し、理は万物に通ずるものである、という思想に基づけば、居合の稽古も道の修行たり得るものと云えるかもしれません。

もう少し続きます。


无拍
2021年2月25日 初出
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